「ゆっくり手を引いて下さい。風が水滴を吹き飛ばします。」

どこまでも広がる草原で、少女は言いました。
「ゆっくり手を引いて下さい。風が水滴を吹き飛ばします。」


−世界なんて終わってしまえばいい。−
1番奥の個室で、男はまた呟きました。
部下のミスを庇ってまたも部長に怒鳴りつけられたのです。
すきでもない仕事、すきでもない会社、すきでもない同僚。
そして、すきでもない毎日。
仕事に追われ、絵を描く事もいつしか忘れました。
お気に入りの絵筆も渇いたままで、部屋の壁には描きかけてやめた絵が立てかけられています。
夢も失くして惰性で繋ぐ毎日は、いっそ終わってしまった方が幸せな様に思えました。


濡れた手の水を振り払ってオフィスへ戻ろうとすると、そこに見慣れない影を見つけました。
白いワンピースを着た幼い女の子です。それは昼下がりのオフィスビルには似合わない光景でした。


「ちょっとねえ、きみ、迷子?」
男は声をかけました。
「ひとり?お母さんはどこへ行ったの?」
女の子は俯いて黙ったまま、何も答えようとはしません。
「まいったなあ。きっとビルに間違って入って来ちゃったんだね。受付まで連れて行って、お家の人をいっしょに探そう。」
女の子が小さく頷いたので、男は女の子の手を取りエレベーターへと歩き始めました。


乗り込んだ9階から、1階のボタンを押します。
女の子は心細いのか、エレベーターに乗っている間も男の手を離そうとしません。乗っているのは2人だけです。


ふいに、7階でエレベーターは止まりました。
−まずいぞ、この状況を誰かに見られたら不審に思われる。説明しようにも面倒なことになるなあ。−
男はとっさに言い訳を考えましたが、開いたドアの向こうはまったく予想もしていないものでした。


そこに広がるのは青く澄んだ美しい海でした。
「は?うみ?」
突然の不思議な出来事に男は息をのみました。
けれど同時に、昔よく描いていた故郷の美しい海の事を思い出していました。


男が呆然としているうちにドアは閉まり、またゆっくりと下降して行きます。
今度は5階で止まり、ドアの向こうにはまたもや不思議な光景が広がっていました。


そこはとても広く、まっしろな四角い部屋でした。部屋には何もありませんが、そのかわりに壁や天井、床にまでびっしりと写真が貼られています。
その写真はよく見ると、どれも人の顔を写したものでした。
笑った顔、泣いた顔。人々の一瞬の感情を切り抜いた写真たちです。
さらによく見ると、どれも知った顔である事に気づきました。
故郷に残してきた母、中学でいつもいっしょにつるんだ仲間達、好きだった恋人。
いつも怒ってばかりの部長は、赤ちゃんに顔を寄せて頬を緩ませています。先月生まれたという娘でしょうか。
そして男は、人々のそういう表情がすきで、よく絵に描いていた事を思い出していました。


ドアはまた閉まり、動き始めます。下がっていくエレベーターとは裏腹に、男は胸に込み上げるものを感じていました。


エレベーターはまたも止まり、ドアの上で3の数字が点滅しています。
開いた先に見えたのはとても見慣れた場所でした。
そこは、上京した時から住んで8年になる古いアパートの自室でした。不思議な事にもうひとりの自分がそこにいます。
どうやらこちらには気づいていない様子です。
さらに不思議な事に、ここでの時間はものすごく早送りで進んでいる様です。
男はすぐにそこに描かれているのがこれまでの自分だという事に気がつきました。
ここで自分がどうやって過ごしたか、どんな絵をどんな気持ちで描いていたか、どんな涙を流したか。
色褪せていたこれまでの8年間が次第に色づいていきます。


「ああそうか、ぼくは…」
知らずのうちに、男の頬を涙が伝いました。


またエレベーターは動き出しましたが、男はもう女の子を連れて行くという目的も忘れて大泣きしてしまっていました。
困った女の子がはじめて口を開きます。
「泣かないで下さい。」
突然言葉を発した女の子に、男はふと我に返ります。
「ああ…、ごめんごめん。きみが困っているのにおじさんが泣いてちゃあ駄目だよね。」
ぐしゃぐしゃの顔に無理矢理笑顔を作って、男は微笑みかけました。


そしてようやく1階についたとき、開いたドアの向こうに広がっていたのはどこまでも続く様な壮大な緑の草原でした。
男は女の子の手を引き、ゆっくりとドアの外に足を踏み出します。
優しく風が吹いて、男はふと気づきます。
−これは、描きかけで放り出したあの絵の風景だ。−


エレベーターのドアの向こうに目にしたものは、どれも男が描いてきたものでした。
どれも男の人生であり、世界でした。そしてそれはどれも男がすきなものたちでした。
−世界をまたすきになれるかも知れない。−
忘れていたものを思い出して、男は呟きました。


また風が吹いて、男の体を吹き抜けていきました。
これまでの悲しみも、悔しさも、嘆きや痛みさえもすべて吹き飛ばす様な、それは穏やかで力強い風でした。
またいつのまにか涙を流していた男に、手を引かれた少女がうしろから声をかけました。
「ゆっくり手を引いて下さい。風が水滴を吹き飛ばします。」


おしまい



ええと、新しい職場がキレイなオフィスビルで、トイレもちょーキレイなんですね。
そんで気になったっつー。



おしまい